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沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄 作家 曽野綾子 「正論」平成15年9月号掲載 終戦直前の1945年春、沖縄本島への攻撃の直前に慶良間列島の島々が攻撃された。攻撃は主に艦砲射撃によって行われたが、その激しさは想像を絶するものであったという。 そうした激しい戦火のただ中にほうりこまれた慶良間列島のあちこちで、追い詰められた村民が集団自決をしたケースがあった。この人たちが、古い日本の教育と思想を受けた人々であったことは間違いない。 島民だけではない。当時まだ子供だった私をも含めて日本人のすべてが「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けていた。そうした軍国教育の片棒を担いだ大きな力は、文部省と教師たち、大手の新聞社であったことをここに明記して置かねばならない。 1971年の10月から、1972年の8月まで、私は文芸春秋社から発行されている月刊誌『諸君!』に、この慶良間列島中の渡嘉敷島で起きた村民の集団自決の調査報告を『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』と題して連載した。 私がこの事件に関心を持ったのは、戦後四半世紀経ってからなのである。私はそれまでにも沖縄の旧女学生たちが、終戦間近の戦乱の沖縄で、軍と運命を共に けなげに働いていた状況に焦点をおいた『生贄の島』などを書いていたが、その取材の途中で、この島の悲劇のことも耳にしたのである。 渡嘉敷島は沖縄本島から30キロの沖合いに浮かぶ島である。1945年終戦の直前に、その島には陸軍の海上挺身第三戦隊の海上特攻部隊130人が駐屯していた。彼らの武器はおもちゃのような船であった。 先頃、北朝鮮の工作船が公開され、見る人は一様に「こんなオンボロ船で、ろくろく寝るところもなく乗組員を載せて・・・・・」と言ったが、工作船はまだしも鉄船である。 こちらはベニヤ板でできた長さ5メートル、幅1.5メートル、深さ0.8メートルの舟に、75馬力の自動車用エンジンを載せ、速力20ノットで夜陰に乗じて敵の艦船に接近し体当たりし、120キロの爆雷二個を爆発(三秒瞬発信管使用)させて沈没させるのが目的であった。 「三艇を一組として敵船腹にて爆破せしむるもので、隊員の生還は不可能である」となっていたのである。 この海上挺身第三戦隊を指揮する赤松嘉次元大尉はその時まだ25歳であった。私は1970年9月17日、大阪ではじめて氏に会ったが、氏はその後、1980年に逝去されている。 私が渡嘉敷島の事件に興味を持ったのは、その年の春に見たいくつかの記事がきっかけだったと記憶している。 つまり赤松元隊長とその部下たちが島の慰霊祭のために渡嘉敷島に渡ろうとして抗議団に阻止されたのである。結局、部下たちだけが慰霊祭に出席し、懐かしさを示す村人たちと歓談したが、赤松元隊長だけは島へ行くことを諦めた。 抗議団というのは、平和を守る沖縄キリスト者の会、歴史・社会科教育者協議会、日本原水爆禁止協議会沖縄県支部、日本平和委員会沖縄県支部、日本科学者協議会沖縄県支部、の連合体であった。 当時のジャーナリズムの中には赤松元隊長を悪の権化のように書くものが少なくなかった。その先鋒の一人が大江健三郎氏であった。1970年9月の奥付で、岩波新書から出版された氏の『沖縄ノート』には、赤松元隊長について次のような記述がある。 「まず、人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ、いかにおぞましく恐ろしい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減してゆく、ということに注意を向けるべきであろう。 その人間が可能な限り早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる『沖縄戦記』のたぐいを満たしていることか」 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊の前で、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」 私は当時この文章を読んで、二つの感慨を持ったことを記憶する。 一つは人の罪をこのような明確さでなじり、信念を持って断罪する神の如き裁きの口調に恐怖を感じたということである。 もう一つの感慨は極めて通俗的なものであった。私はこの赤松元隊長という実在の人物がもしほんとうに告発されているような人物なら、ぜひ一度会っておきたい、と思ったのである。 実はほんとうの悪人というものを、私はまだこの世で見たことがなかったので、実物を見れば私の人生観もひっくり返るかもしれない、という期待もあった。 私は、自然にその関係の記事や書物を読むようになった。その代表の一冊は沖縄タイムズ社によって発行された『沖縄戦記・鉄の暴風』で、その中には、赤松元隊長がいったんは住民に向かって軍陣地に避難せよ、と言いながら、住民がその通りにすると、自分たちだけは安全な豪の中にあって住民を追い払い、翌日には自決命令を出したというものである。 『鉄の暴風』は次のように描く。 「轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頚部をきったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた」 間もなく私は、第二資料とでも言うべき『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』のコピイをもらった。事件の中心の部分は、次のように書かれていた。 「瞬間、手榴弾がそこここに爆発したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」 「(死に損なった者は)剃刀で自らの頚部を切り、鍬や刀で親しい者の頭をたたき割るなど、世にもおそろしい情景がくり拡げられた。谷川の清水は、またたく間に血の流れと化し」 文章を長年書き続けて来た者の体験から言うと、これだけよく似ている表現は、必ずどちらかがどちらかを下敷きにして書いているものである。 そのうちに私は、第三資料にぶつかった。那覇在住の作家・星雅彦氏のエッセイによると、資料となるものは三つ年代順と思われる順に並べると、次のようになる、という。 第一が『渡嘉敷における戦争の様相』(渡嘉敷村、座間味村共編)で、当時の村長・古波蔵惟好氏と役所吏員防衛隊長・屋比久孟祥氏の記憶を辿って書いたもの、となっている。資料は琉球大学図書館にあるガリ版刷りで、書かれた日時の明記はなく、赤松元隊長が自決命令を出したという記録もない。 第二が『鉄の暴風』(沖縄タイムズ社編)。1950年(昭和25年)8月の日付があり、「自決命令が赤松からもたらされた」とある。 第三が『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』(渡嘉敷島村遺族会著)で、出版は1953年(昭和28年)3月。「赤松隊長から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」となっている。 この三つの資料には、どれかを模写したような共通の文体と内容があることを炯眼の星氏は看破していたのである。 第一資料『渡嘉敷における戦争の様相』と第3資料の『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』は、その自決の場面などには、偶然とはとうてい思えない多くの同一表現が見られる。 とりわけ私にとって決定的に思えたのは、この三つの資料が、米軍上陸の日、1945年3月27日を、どれも3月26日と一日間違って記載していることであった。 何しろ悲劇の始まった日なのだ。生き残った村民にとっては父母兄弟たちの命日の日である。それを三つの資料とも書き違って平気でいるということはないだろう。 これは、三つの資料共、直接体験者でない人々が、後年、伝聞証拠を元にして、前の資料を下敷きにしながら書いて行ったと言う証拠であろう。 私はその当時39歳であった。体力だけは充分であった。私は軍と村民側双方から話を聞くことにしたのである。 その時から私は一つの原則を守った。会える人にはできるだけ会う。軍側の人たちは、飢えと危険の中で生きていたのだから、必ずや赤松元隊長に対して批判的な人もいたであろう。そのような恨みを持つ人が「真相」を話しやすいようにするには、大勢の中ではなく、一人ずつ会うようにする。この二点である。 敵の艦砲射撃が始まったとき、軍陣地内に逃げよ、という命令を聞いて集まった村民を、赤松元隊長が民間人を軍陣地内には入れられないとして追い返し、自分たちだけ安全な壕にいた、という一つの話を例に取ろう。 このことについて『鉄の暴風』は、赤松元隊長の副官であった知念朝睦氏がその時「悲憤のあまり、慟哭し」たと書いている。知念氏がその苗字が示す通り沖縄県人であったので、非常によく筋が通って読めたのである。 しかし赤松隊側に聞くと「軍陣地は攻撃目標になる危険なところでありますから、最初から民間人を入れるという考えはありません」と言い、知念氏は『鉄の暴風』の記載のでたらめさに憤慨し、かつまともに聞いて来ようともしない沖縄のマスコミに怒って、私に会うまで口を閉ざしたままであったという。 知念氏によると3月25日に特攻舟艇の出撃が不可能になり、初めて赤松隊は心ならずも「島を死守する」ことになった。その二日後の27日に、『鉄の暴風』の書くような「将校会議ができるような壕など全くありえない」と言う。 当時、村の有力者といえば、校長、村長、駐在巡査の三役だったが、私の幸運は当時の村長も、駐在巡査も健在だったことだった。 村長が「自分は自決命令を聞いていないが、駐在がそれを伝えて来た」言明したので、私とすれば駐在巡査に会えばよかったのである。 幸いにも元巡査の安里喜順氏は快く私に会ってくれ、赤松元隊長が自決命令を出したことを否定した。むしろ「あんたたちは非戦闘員だから、生きられる限り生きてくれ」と言ったと証言したのである。 その時に私は驚いたのだが、知念元副官と言い、安里元巡査といい、鍵を握る人物が現存していて、少しも面会を拒否していないのに、取材のために会いにきた沖縄側のジャーナリストは一人もなく、私より前に取材に来たのは「週刊朝日」の中西記者だけだという事実だった。 ついでに言うと、大江氏も渡嘉敷島にさえ取材に来てはいなかった。当時渡嘉敷島には民宿が一軒しかなかったが、私が当然のように大江氏の名前を出しても宿の人はぽかんとしていた。 結論を言うと、私ができる限りの当事者にあたっても、赤松元隊長が自決命令を出したという証拠はどこからも上がってはこなかったのである。 混乱は少なからずあった。もう少しこうすればよかった、という反省は赤松隊側からも出た。しかし西山の玉砕地と呼ばれる悲劇の土地に300人を越す遺体が集まっていたのを見た人はいなかった。 しかしそれを敢えて言わなかったのは、玉砕ということで遺族が年金をもらえれば、それでいいではないか、と思ったという。 私がこの調査をし終わって得た結論は、「赤松隊が自決命令を出さなかったという証拠はない。しかし出したという確実な証拠も全く見つからなかった」ということである。 赤松元隊長を糾弾しようとする多くのマスコミや作家たちは、私が私費でできた基本的調査さえせずに、事件の日にちさえも取り違えた記録を一つの日本史、あるいは日本人の精神史として定着させようとした。その怠慢か欺瞞かが、やっとはっきりしたのである。 人間は間違えるものだ、ということが、私の常日頃からの一つの思いでありこの事件の調査を終わった後も、それは変わらなかった。もし私があの渡嘉敷島の戦中戦後の困難の中におかれたら、私は考えられる限りの感情的な行動を取ったろう。そういう自覚の中では、渡嘉敷島の戦闘に生きたすべての人々は限りなく自然であった。 調査が終わった後、私は生涯沖縄に行くのをやめようと思っていた。この問題に関して、沖縄で発行されている二つの新聞が徹底して私を叩き続けたことを、私は忘れたかったのである。 沖縄の人たちは、この二つの新聞だけが地域を独占している限り、自由で公正な思想とニュースを受けることはないだろう、と感じたが、それも人のことだから、どうでもいい。 しかし何年か経った時、私はやむを得ぬ仕事で沖縄に行くことになり、新聞記者に会った。その中の一人が「赤松神話は曽野さんの調査で覆されましたが」と言った時、私は彼に答えた。 「あなたはどうしてそんなことを言えるのですか。明日にでも渡嘉敷島の土の中から、赤松隊の自決命令書が出てくるかもしれないではないですか。私たちはただ、今日までのところ自決命令が出たという証拠はなかった、ということを知っているだけです。どんなにどちらかに片づけたい事件でも、私たちは歴史の曖昧さに耐える勇気を持たなければならないんです。」 教科書にこの事件が日本軍の残忍さを証拠立てる事件として何の証拠もなく記載されることの恐ろしさは言うまでもないが、私はもう一つの側面を見落としてはならない、と思い続けて来た。 当時沖縄では「この類を見ない残酷な事件、強制された自決」は、日本人の恥の記録とすべきものだ、というふうに話す人がたくさんいたし、おそらく教科書の記載もそうなっているのであろう。 しかしそうではない。集団自決の最初は少なくとも私の知る限り、第二次世界大戦の終結時より1800年以上も前、すでにイスラエルで起きていたのである。 紀元一世紀のパレスチナ地方は、前世紀の中ごろからローマ人の占領下にあった。小競り合いは度々あったが紀元66年に起きたユダヤ人の反乱は大規模なものとなった。 その時、死海のほとりに屹立する人口の要塞マサダに立てこもったユダヤ人たちは、ここをただ一つの前哨として、実に紀元73年までこのマサダを死守したあげく、降伏か死かのいずれかを取ることになった時、全員集団自決を遂げたのである。 「光栄の死は屈辱の生にまさるものであり、自由を失ってなお生きながらえるという考えを軽侮することこそ、もっとも偉大な決意である」 としたのである。ヨセフスはマサダ陥落とローマ人の入城の模様を次のように書く。 「かくしてローマ人たちは、多数の死者に出会った。それは敵ではあったが、彼らはそれを喜ぶことはできなかったし、またそれほど多くの人々が、かような行動をとることによって示した決然たる勇気と死に対する不動の軽蔑とを、感嘆するほかなかったのである」 彼らの自決の方法を書いたと思われる陶片には次のように記されていた。 「それから彼らは、他の者たちを殺害するために、籤で十人の男たちを選び出した。他の者たちは地上に身を横たえ、各々その妻や子供たちの傍らでかれらを腕に抱き、籤でこの悲しい務めを果たす男たちの一撃の前に、首を差し延べたのである。 そしてこれら十人が、恐れることもなく他の者たちを殺害し終えたとき、かれら自身も同じ仕方で籤を引き、当たった者がまず他の九人を殺害してから、最後に自決することにしたのだった」 イスラエルでは今でもこの地を民族の歴史の誇りとして扱う。国賓は死海から400メートルも高いこの要塞の上にヘリで運ばれる。新兵もここで誓いを立てる。 同じような悲劇を持つ沖縄では、自決した人たちの死は軍から強制されたものとすることに狂奔した。それは死者たちの選択と死をおとしめるものであろう。イスラエルと日本のこの違いはどこから来るのか。私はそのことの方に関心が深いのである。 ≪編集部註≫ 本稿に関係する歴史教科書の記述例は以下の通り(いずれも来春から使用される高校教科書)。 ≪日本軍によって集団自決を強いられた人々・・・≫(実教出版・世界史B) ≪犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって「集団自決」を強要された住民や虐殺された住民も含まれており・・・≫(桐原書店・日本史B) ≪日本軍に「集団自決」を強いられたり・・・≫(三省堂・日本史A) ≪戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり・・・≫(東京書籍・日本史B) 沖縄戦index(未作成)
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「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載8回目 信頼どこにおくか 将校会議があったかなったか、赤松隊の陣地がどうだったかということは、付帯的な問題にすぎない。『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものであり、また、なかには創作的な記述があることを証明するためにそれらは持ち出されたものだが、『鉄の暴風』の記述がすべて実体験者の証言によるものであり、記述者の創作は介入していないことを言明することで答えとしたい。あとは、赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけである。 ありもしない「赤松神話」を崩すべく、曽野綾子氏は、新しい神話を創造しているにすぎない。そのやり方は手がこんでいる。『鉄の暴風』だけでなく渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする。なぜなら、それらの戦記にも『鉄の暴風』とおなじようなことが書かれているからで、それらすべてを否定しないと、赤松弁護の立論ができないのである。 沖縄側の渡嘉敷戦記の全面否定は、あとで曽野氏がいちばん信用できるとする赤松隊の陣中日誌なるものを持ち出すための伏線となっている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が、伝聞証拠によって書かれたとする判断をふまえて、曽野氏はつぎのように推理する。 曽野氏は、渡嘉敷島に関する三つの記録をあげている。沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、渡嘉敷村が出した『渡嘉敷島における戦争の様相』の三つである。そして、この三つの戦記は、そのうちのどれかを模写したような文章の酷似が随所にある、と曽野氏は指摘する。結論を言えば他の二つの戦記は『鉄の暴風』のひき写しであるというのである。 「事実内容」の問題 『鉄の暴風』の文章を、他の二つの戦記がまねたようだという判断から、事実内容までもほとんど『鉄の暴風』の受け売りだとし、『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が信用できないので、その文章をまねて書かれた他の二つの戦記の事実内容まで疑わしいとする推理だが、この推理はおかしい。渡嘉敷村遺族会編の戦記も渡嘉敷村編の戦記も、直接の体験者たちの証言または編集によってまとめられたものであることは間違いない。直接の体験者たちによってまとめられたものが、いくぶん文章をまねることはともかく、事実内容まで、伝聞証拠によって書かれたとされる『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記をまねるということがありうるだろうか。 この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである。三つの資料は、いずれも直接体験者の証言に基づくものであって、直接体験者でない者からの伝聞証拠によって三つの記録の事実内容が共通性をもたされているのではないことはあきらかである。 私製の「陣中日誌」 曽野氏が最も信用できる資料として赤松弁護の道具に使っている赤松隊の「陣中日誌」なるものは、ほんとの「陣中日誌」ではない。軍隊では、作戦要務令で規定された陣中日誌を「陣中日誌」というのだが、赤松隊の陣中日誌なるものは、戦後まとめられた(記述の年月日がある)もので、「私製陣中日誌」であることがわかった。しかも自画自賛と自己弁護の色合の強いもので、客観的資料として信用しがたいものである。 現地側の戦記資料はすべて否定し、赤松隊のこの「私製陣中日誌」に最大の信を置いて書かれたのが『ある神話の背景』である。赤松隊の「私製陣中日誌」と曽野氏の『ある神話の背景』とは、書かれた意図に似通うものがあり、赤松隊弁護の意図で重なり合っているが、『ある神話の背景』があるていど公平を装っている点だけがちがっている。 目次へ | 次へ
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赤松氏デビュー1968/4/6号週刊新潮 渡嘉敷島の第3挺進隊長であった赤松嘉次氏が、戦後再び国民の前に姿をあらわしたのは、今から40年も前の1968年の週刊新潮紙面であった。おそらく、大スクープであったに違いない。40年も前というと、1945年の沖縄戦のときから見れば、1905年の日露戦争ということになる。 これは、明らかに「歴史史料」である。 この週刊新潮記事から、赤松氏の名誉回復運動ははじまった。この記事中の「私は何も悪いことはしていない」、「近く渡嘉敷を訪問するこころづもりだ」という言葉が挑戦的と受け取られ、2年後、有名な「渡嘉敷島渡航阻止」の抗議行動を呼び込んだ。 その抗議行動のニュースと赤松氏の言動に触発されて、大江健三郎氏は「沖縄のノート」最終回を記述した。 また、その抗議行動のニュースを読んで、曽野綾子氏は赤松氏にひきつけられ「切りとられた時間」と「ある神話の背景」という、2編の渡嘉敷島集団自決をテーマとした作品を書いた。 そうしていま、大阪地裁で赤松嘉次氏の弟と、座間味島挺進隊長梅澤裕氏とを原告とし、大江健三郎氏を被告とする名誉毀損裁判が進行している。 いまから復刻しようとする週刊新潮記事は、こうした争いごとの端緒であり、論争事始、いわば日中戦争を起こした盧溝橋事件の謎の「発砲音」である。そしてこれは、「大東亜戦争」にまけた日本国民が日露戦争を回顧するが如き歴史的文献でもある。40年の経過といえば、そのとき赤ちゃんとして誕生したとしても、早い女性なら「おばあちゃん」と呼ばれてしまう年月である。 紹介されている島の住民によって書かれた戦記、『渡嘉敷島における戦争の実相』は、曽野綾子氏の「ある神話の背景」にも一部引用されているが、そこでは他の文献との文章の類似性を例示するだけで、書かれている事実を先ずは端正に読み取ろうという謙虚な姿勢はない。この週刊新潮記事は、大学に眠る『渡嘉敷島における戦争の様相』(※)の記述内容を知る上でも、貴重な史料といえよう。 ※(引用者注)この週刊新潮記事では『渡嘉敷島における戦争の実相』と誤記されています。詳しくは、大阪に住んでいた高校教師がまとめた論文:『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照のこと (たとえば、特攻艇『マルレ』を海に泛べる作業に防衛隊員など住民も参加していた、という事実は「ある神話の背景」にもない。玉砕した住民を見てないという赤松大尉の目には、何処にいても住民の姿は映らなかったようだ。曽野氏もそうした赤松氏の視野を踏襲している) 私にこのような歴史史料探索へと導いたのは、ほかならぬ大江・沖縄裁判の原告の人たちである。感謝申し上げます。 戦記に告発された赤松大尉沖縄「渡嘉敷島処刑」二十三年目の真相島民三二九集団自決の地獄図 「荒れ狂った赤松隊の私刑」 赤松元大尉大いに弁ず 「島民を斬ったのは軍紀」 ~~~~~~~~~~~~~~(記事引用開始ここから) 戦記に告発された赤松大尉 沖縄「渡嘉敷島処刑」二十三年目の真相 (記事リード) 昭和20年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、恩讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。主役を演ずる赤松大尉の名。島民に集団自決を強い、女子少年を惨殺し、自らは生還していったという。ある書評氏は、彼が、いま自衛隊幕僚のイスにあることをホノめかす。 以下は、ベールを脱ぐ赤松大尉事件の実相と、今日の素顔である。従来の沖縄戦記を変えることになるかもしれない。 沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』(正しくは『渡嘉敷島における戦争の様相』)と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた(※)、島民自身の戦史である。 ※(引用者注)記事上の記述からは「昭和25年にまとめられた」とする根拠は不明。ガリ版刷の文書には、成立の日付はないという:『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照。 渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間列島の主島。「山紫水明の自然」に恵まれて、沖縄の「美しき離島」といわれるところ。 昭和20年3月、この「美しき離島」に、赤松嘉次大尉(当時25歳)を隊長とする陸軍の海上挺進隊(注=合板で作った小さな舟に爆雷を載せ、敵艦に突入する、陸軍の水上特攻隊)の第3戦隊が駐屯した。隊員130名。そのほとんどは特別幹部候補生だった。そして、爆雷を積んだ舟艇が百隻、すべて、海岸近くに隠されていた。そのほか整備隊、通信隊員若干名と、朝鮮人軍夫320名が赤松指揮下である。 3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊が侵入した。彼らは「いかにも日本軍を見くびったのごとく、悠々と投錨」し、渡嘉敷島に砲撃を開始した。 午後11時、赤松隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。その時の模様を"記録"は次のように書く。 「夜空に敵艦砲の落下もものかはと防衛隊(注=軍に臨時に召集された島民隊)70余名、男女青年団員100名、壮年団員30名、婦人会40名が軍に協力、舟艇百隻は退避壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連(注=いずれも渡嘉敷島の地名)の海辺に勇姿を揃えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて、出撃の命令を今か今かと待っていた」 しかし、「赤松隊長は出撃命令を下さず、壕の奥に待避し、戦闘意欲を全く失っていた」というのである。 "記録"は続く、 「百隻の舟艇は、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考えてか、或いは気が狂ったのか、全艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが、上官の命令に抗することも出来ず、既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで、舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は、本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山(注=島内の山)の奥深く待避し、赤松隊の生き伸び作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた」 島民三二九集団自決の地獄図 3月26日、渡嘉敷島民約千四百人が最も恐れていた米軍の上陸が開始された。 が、赤松隊に応戦の意思はなく、武器弾薬を放棄し、隊長以下全将兵の"生き延び作戦"がはじまった。その結果、米軍は島を完全に"無血占領"したのである。 27日夕刻、駐在巡査を通じて、赤松隊長の「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」という命令が伝達された。その夜はものすごい豪雨。それでも島民たちは「頼みとする赤松隊」の陣地を目ざして、「ハブの棲む真暗な山道」を、統制なく、歩いて行ったのだ。その雨の山道は「親子、兄弟を見失った人々の叫び声がこだまし、全く生地獄の感」であったという。 そうして、やっとの思いでたどりついた島民たちを待ち受けていたのは、意外にも、赤松隊長の「住民は軍陣地外へ撤退せよ」という冷たい命令であった。もっとも、その命令が意外かどうかは、"記録"そのものにも矛盾があるのだが。なぜならば、赤松隊長が駐在巡査を通じて伝えた命令は、「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」というもので、「西山の軍陣地に集合せよ」ではなかったのだから。 それはともかく、撤退命令を受けた島民たちは、3月28日午前、西山の軍陣地北方の盆地に結集した。そして、問題の"集団自決"がはじまるのである。""記録"によると――、 「その頃、島を占領下米軍は、友軍(注=赤松隊のこと)陣地北方百米の高地に陣地を構え、完全に包囲体型を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り、遂に住民の待避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事ここに至っては、如何ともし難く、全住民は、皇国の万歳と日本の必勝を祈り、笑って死のうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々2個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手榴弾に2、30人が集まった。手榴弾がそこここで発火したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時に老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは、棍棒で頭を打ち合い、剃刀で自分の頚部を切り、鋤で親しいものの頭をたたき割る等、世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして329名の生命を奪った。その憎しみの盆地を村民は、今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は、軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入り口に立ちはだかり、軍の壕に入ってはいけない、速やかに軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた」 「赤松隊長が、島民に"自決命令"を出したということは、"記録"には書かれていない。けれども、防衛隊員に手榴弾を持たせたこと、死に切れずに軍陣地に押しよせた島民たちを隊長が「軍の壕にはいってはいけない」とにらみつけたという表現などで、"集団自決"は強いられたものであるといっているのである。ちなみに、この"記録"を読んで、渡嘉敷島を訪問し、その"生存者"たちに直接問いただした人々は、確かに赤松隊長から"自決命令"が出されたという島民の証言をレポートしている。たとえば、ルポ作家の石田郁夫氏は『沖縄の断層』(雑誌『展望』67年11月号)で、「赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」と明確にしるしている。 「荒れ狂った赤松隊の私刑」 3月31日夜半、米軍は「赤松隊の兵力をみくびったか」、渡嘉敷島を撤退した。その直後、赤松隊長から島民に対して、「家畜屠殺禁止、違反者は銃殺」という命令が出され、さらに、「我々軍隊は、島に残っているあらゆる食糧を確保し、持久態勢を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住む全ての人間に死を要求している」という"主張"が付け加えられ、ただちに軍による島民監視の前哨線が設けられた。 4月下旬、米軍は再び渡嘉敷島に上陸してきた。彼らは、すでに占領した伊江島(注=那覇市の北西にある島)から、生き残った伊江島民を連れて来て、焼け残った渡嘉敷島民の家に収容した。むろん、渡嘉敷の島民たちはその間、山をさまよっていたのだ。その"さまよう島民たち"に赤松隊は残酷な"私刑"加えてきた・・・・。 例えば、多里少尉は「住民の座間味盛知にスパイの嫌疑をかけ」て切り殺した。また高橋伍長は、「山をさまよい歩く古波蔵太郎(※)を、敵に通ずる恐れあり」として、その軍刀にかけた。"私刑"は日ましにふえ、しかも"隊長命令"で堂々と行われるようになっていったのである。"記録"は告発する。 「米軍の要求により伊江島住民から選ばれた若き男女6名が、赤松隊に派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり、降伏することが最も賢明な策であることを伝えるためであったが、赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を惨殺した。 また、集団自決に重傷を負い、米軍に収容された十六歳の少年小嶺武則、金城幸次郎の両名は米軍の治療を受け、ようやく恢復したので、米軍の支持に従い、渡嘉敷住民へ連絡のため避難地へ向けられた。目的は住民へ早く下山する様伝えるためであったが、途中赤松隊の将士は二人を捕え、米軍に通じた(という)理由のもとに処刑した。 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された」 8月15日、島民たちは古波蔵惟好村長と相談し、ついに米軍へ集団投降した。 赤松隊が投降したのは、8月22日のことであった。 ※古波蔵太郎→古波蔵樽という人名が多くの書では引用されている。 赤松元大尉大いに弁ず 今、その「悪名高き」赤松嘉次元大尉は「自衛隊の幕僚」ではない。すでに48歳、関西のある小都市で、父親譲りのかなり大きな肥料問屋を経営している。むろん、戦後、彼自身の口は「渡嘉敷戦」について多くを語っていない。やはり苦痛だったのであろうか?その彼が、今年1月14日、戦後、23年目にはじめて開かれた「渡嘉敷島海上挺身(ママ)隊第三戦隊」の"同窓会"で、これまたはじめて「戦闘報告」をおこなったのである。なぜ、そういう"心境"になったのか。一つには、防衛庁が出した戦史『沖縄方面陸軍作戦』が「彼の名誉を回復した」からといわれ、また最近、渡嘉敷島住民の間で、「赤松名将説」が現れたことに「ご本人、すっかり気をよくし」たからともいわれている。 それはともかく、ご本人に直接、島民の"告発"に見合った「戦闘報告」を聞こう。なるほど、表情はスッカリ明るいのである。まず、「戦わずして生き延びようとした卑怯者」という非難に対して――。 「 いや、二十年三月二十日、われわれは、特攻用の舟艇の準備を完了していた。そして二十三日、二十四日と空襲を受け、周辺に敵の艦船が多く姿を見せたので、直ちに出動できるような体制を組んだわけです。ただ、あの艇は新兵器なので、上級司令部からの命令なしに、独断で出動できなかったのです。そこに、私の直接の上司である第十一船舶団長の大町大佐が阿嘉島(注=渡嘉敷島の隣島)から視察に回ってこられた。ちょうど、舟艇を海岸におろしているところだったので、大町大佐にひどくシカられたことを覚えている。大町大佐の考えは敵に舟艇があることを絶対に知られてはいかんということで、全舟艇の引き上げを命じられました。そしてさらに、大町大佐を沖縄本島に護送せよという命令が大佐からでたわけです。これもいろいろと議論があって、結局25日、大町大佐を護送しながら全艇の沖縄本島転進が命ぜられた。そこで、全舟艇を浮べる作業を私が隊員に命じたんです。ところが敵艦の接近で、思うように作業ができない。そしたら、大佐が、全舟艇を引き上げよという命令をまた出されたんです。出動できる舟艇も多くあったんですが。 しかし、艦砲射撃の中で、作業がうまくいかず、大町大佐は、引き揚げ不可能なら、全舟艇を沈めよと命令。結局、沈めました。それを島民の人たちは"卑怯者"というふうに思っておられるんでしょうが、私一人なら出撃しましたよ。しかし、上官の命令です。それに司令官として当然のことを考えられたんです。舟艇を敵に見つからないようにと・・・・。大町大佐は、26日、"地上での持久戦"を命令されて、わずかに残った舟艇で沖縄本島に帰られたんですが、途中、戦死されました。そういう事情は島民の人にはわからんですからねぇ・・・・」 「島民を斬ったのは軍紀」 そして、島民に命令したといわれる「集団自決」についてはどうか。 「 そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ。3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分の入れる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、28日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んできた時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来た。そして、村長が来て、"機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい"というんです。もちろん断りました。村長もひどく興奮してたんでしょう。あの人は、シナ事変のと時、伍長だったと聞いてたけど・・・・。 ところが、そのうちに島民たちが実に大きな声で泣き叫びはじめた。これは、ものすごかったわけです。なにしろ、八百メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣き声が敵に聞こえて、今度は集中砲火も浴びるわけです。それで、防衛隊に命じて、泣き声を静めさせようとしました。それでもなお静まらないので、ある防衛隊員が"黙らんと、手榴弾を投げるぞ"と叫んで、胸のポケットにはいっている手榴弾に手をかけたら、どういうわけか安全弁がはずれ、ポケットのフタにひっかかって、胸のところでシューシューいって、とうとう爆発して死んでしまった。とばっちりで将校も一人負傷したが、おかげで、泣き叫んでいた島民も静まりました。集団自決があったのはそれからのことでしょう。私はまったく知らなかった。おそらく、気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れに自殺しはじめたんだと思う。 」 次に、「私刑」について、赤松大尉はなんと答えるか。 「 これは知っています。いや、これはたしかにやりました。"記録"の中には私のしらないのもあるが・・・・。伊江島の女三名、男三名を米軍が投降勧告に派遣してきました。それがわれわれのほうの歩哨線に引っかかったんです。そこで私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、"捕虜になったものは死ぬべきだ"という意見でした。たしかにあの当時はそういうことだったんです。それで六人に会うと、かれらは"われわれを米軍のほうに帰してくれ"という。しかし、こっちの陣地にはいってしまったものは、帰すわけにはいかんというと、"それじゃあ、あなた方といっしょに米軍と戦う!"というんです。だけど、米軍のほうに家族を残して来てるんだから、それはできる話ではない、むしろ死んでほしいといったわけです。そしたら、女はハッキリしとるんです。"死にます"という。男は往生際が悪かったが、ある将校が刀で補助して死なせました。彼らは東のほうを向いて"海ゆかば・・・"を歌いながら死にました。 あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼等が歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで "あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい"といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。 渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じました。防衛隊員のくせに無断で家族のもとに帰るんです。たびたびやるから、今後やったら処刑するといっておいたのにまたやった。その時は本人も悪いと思ったのか、爆雷を持って突っ込ませてくれといった。しかし、私が処刑を命じて副官が切りました。戦線離脱、脱走です。」 赤松元大尉、実にスッキリと認めるのである。いまもって、この"処刑"に、"軍人としての自信"があるらしいのだ。 紹介したように島民たちの"記録"にもいささか冷静さを欠いた箇所がうかがわれ、赤松大尉の弁明にも、「今さら」と思わせる強硬な部分がある。赤松氏が1月の"同窓会"の戦闘報告の冒頭、「私のやったことはすべて若気の至りで」と頭を下げたと聞く。そして近く、23年ぶりで渡嘉敷を訪問する心づもりだという。島民諸氏がどんな受け入れ方をするか。死者の墓の前に、お互いがこだわりを捨て去れれば、この小島の"戦争"はひとまず過去のものとなろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用は以上) 赤松氏の話は、のちの曽野綾子『ある神話の背景』およびその改題WAC版における話と微妙に違う。変わらないのは、大城訓導処刑以外のことは、重要な局面では「戦隊長である自分の決断だ」とは述べず、必ず「他人の誰か」を楯にして弁明を行っている点である。 なお赤松氏は、一般マスコミ登場はこれが初めてだが、すでに『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』の編集過程で、その執筆者の力を借りて軍関係文献とのすり合わせを行っている。従ってこの記事は、自分の体験だけで初めて語った "バージンスピーチ" だとはいえないだろう。 第3戦隊同窓会が重ねられ、その会合に曽野綾子氏が加わるようになって、より緻密なすり合わせが行われ、『陣中日誌』を完成させたものと思われる。 近いうちに、赤松証言の変遷も解析してみたい。 この週刊新潮記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽赤松氏に会いフォローアップした。 それは怒りの特集となった。 →史料発掘:赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報
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今日の訪問者 - 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 (引用者注)この稿は、「関西沖縄文庫」様よりご提供いただいた伊敷さん論文の別刷(下記写真)をタイピングしなおしたものです。「関西沖縄文庫」様に深く御礼申し上げます。 関西沖縄文庫:関西の沖縄情報・文化・芸能の発信基地である「関西沖縄文庫」が大阪・大正区から発信 http //okinawabunko.hp.infoseek.co.jp/ (クリックして拡大) 迫手門学院大手前中・高等学校 紀要第五号 1986年3月30日 『渡嘉敷島における戦争の様相』と 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 伊敷 清太郎 (引用者注)大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出されました。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出されました。参照:書証一覧 (引用者注)文中のリンクマーク箇所に「?」が付加されているものは、資料の収集もしくはアップロードが出来ていないものです。読者の皆様にはご迷惑をおかけしますが、私の努力目標マークとしてご了承くだされば幸いです。 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同はじめに 〔凡例〕 様相と概要の異同の実際 (コメント欄)転載ミスなどのご指摘 はじめに 琉球大学図書館の『渡嘉敷島における戦争の様相』(『慶良間戦況報告書』、渡嘉敷村、座間味村、所載)と沖縄県渡嘉敷村役所にある『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会、一九五三・三・六)は、共に、沖縄戦における渡嘉敷島の戦闘を記録したものである。その内容、文章は酷似しており、戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社、一九五〇・八・十五)を踏襲している点でも同じい(ママ)。 『渡嘉敷島における戦争の様相』(以下『様相』と略す)について、曽野綾子氏は、『ある神話の背景』(文芸春秋・一九七三・五・十)の中で、「恐らく初めて星氏によってジヤーナリズムの明るみに出された」ものだと述べ、また、「星氏によって発見された琉大図書館の資料」であるとも説明している。が、この指摘は正しくない。一九五九年四月十日に刊行された『みんなみの厳のはてに』(金城和彦・小原正雄編、光文社)に、その梗概が載っているからである。二二二ページ「二 渡嘉敷島の戦闘」と章題のつけられた前文には次のようなことが書かれている。 沖縄本島周辺の島々の戦闘は、沖縄本島の戦闘とは、また違った様相をもっていた。ここには慶良間群島渡嘉敷島の戦闘の模様を紹介しよう。この記録は、当時の村長古波蔵村惟好(こはくらいこう)[※1]氏と召集された村民でつくられた防衛隊の隊長尾比久孟祥(おびひさもうしょう)[※2]氏の話をもとにして書かれた渡嘉敦村の公式文書を抄録したものである。 編者は、『様相』を「抄録した」と述べているけれども、両書を比較してみると、表現の異るところが目につく。 また、同じく金城和彦の手になる『愛と鮮血の記録』(国会財政研究委員会出版局、一九六六・一・一)には、その全文を掲載しているが、これも『様相』の正確な再録とは言いがたい(P八四~P八八参照)。 一九六八年四月五日号の『週刊新潮』は、 昭和二十年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、怨讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。 (「戦記に告発された赤松大尉」) と指摘し、原文を引用しつつその内容を紹介している。「ガリ版刷の"資料"」が、それまで、一般に知られていなかったのは事実であるが、その内容については、先の二著で、すでに、明らかであったこと言うまでもない。 以上述べた点から、曽野氏の推察は、誤りであることが知られよう。星雅彦氏以前に、『様相』は「ジャーナリズムの明るみに出され」ていたと言わなけれぱなるまい。 一方、『慶良間列島渡嘉敦島の戦闘概要』(以下『概要』と略す)が、一般の目に蝕れたのは、赤松元大尉来沖の年すなわち一九七〇年三月二七日付沖縄タイムスが最初であろう。ただ、それは「渡嘉敷島戦闘の概略」という見出しで、「集団自決の日、昭和二十年三月二十八日」の項のごく一部を引用しているに過ぎない。 『概要』を詳細に紹介したのは、管見に入る限り、『週間(ママ)朝日』の「集団自決の島――沖縄・慶良間25年目の暑い夏」(一九七〇・八・二一)である。記者の中西昭雄氏は、その中で、『概要』を引きながら、極限状況の中の集団自決問題について考察している。 それまで『概要』を読んだ者がなかったわけではない。星氏もその一人であった。氏は、赤松元大尉来沖の二年前に、それを渡嘉敷村「役所で読んだ」(「25年前は昨日の出来事」、沖縄タイムス、一九七〇・四・三)という。 星氏は、『鉄の暴風』、『様相』、『概要』の文章のよく似ている点から、相互に関係のあることを、新聞の随筆欄中で指摘したのである。 その星氏の文章から示唆を受け、三書のつながりについてより詳しく論じたのが、曽野綾子氏であった。曽野氏は『ある神話の背景』の中で、三書の成立順序を、『鉄の暴風』→『概要』→『様相』の順であろうと緒論づけたのだが、その論拠とする点には多くの問題がある。それについては、『教育研究所紀要』第五号(追手門学院教育研究所、一九八六・三・二十三)の拙論「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」を参照されたい。 『様相』と『概要』は、マスコミに別々に取り上げられ、星氏を待ってはじめて、その類似性に疑問が投げかけられたのであった。そしてそれを発展させ、考察したのが曽野氏であったわけだけれども、氏の説には実証性を欠く憾みがあることを指摘しておこう。 『様相』と『概要』が、『鉄の暴風』の影響下に成立したであろうことは、まちがいない。しかし、それは決して曽野氏の言う通りの順序ではないであろう。 さて、『概要』は、現在、渡嘉敷村役所にある。だが、後人の手によってペンや鉛筆で修訂された跡が各所に見受けられ・そのまま文献として使用するのにはどうかと思われる点が多い。特に『様相』との前後関係を比較検討する場合など、問題があるであろう。 ここに参考に資すべき一つの資料がある。それは那覇市在住の山田義時氏の所蔵する『概要』である。曽野氏のものと同じくコピーであるが、山田氏によれぱ、この『概要』のコピーは赤松元大尉来沖の半年から一年程前、資料収集の必要から入手したものだという(その時期を推定すれぱ、一九六九年三月~九月頃ということになる)。当時渡嘉敷村役所には複写機がなく、氏は『概要』を那覇へ借り出し、コピーしたとのことであった。 曽野氏の場合は、一九七〇年九月十七日、大阪で『週間朝日』の中西記者から、コピーをもらっている(『ある神話の背景』P三〇~P四四参照)。氏はこのコピーによって、『様相』との比較を試みたわけである。山田氏と曽野氏のコピーの間には、約一年の差があるけれども、山田氏のコピーから推して、曽野氏のそれもほぼ元の形をとどめていた、ということがいえそうである。 筆者は「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」疑問を感じ、曽野氏の各論点を追考してみたが、氏とは逆の結論に達した。『概要』は、文の達意さ、明解さの点において勝っており、はっきりと『様相』を推敲した跡がうかがえたからである。 以上、『概要』『様相』のこれまでの取り扱われ方について簡単に述べてみた。本稿の目的は如上の点をふまえて、両書の異同を逐一指摘し記録することである。大方の参考にでもなれぱ幸甚としたい。 注 ※1 こはぐらのぷよし 「古波蔵惟好氏」の誤り。 ※2 やびくもうしょう 「屋比久孟祥氏」の誤り。 〔凡例〕 一、テキストは『様相』を用いた。 二、線の右に小さく示してあるのは『概要』の表現である。 三、『様相』になく、『概要』にある表現は、( )の中に傍書しておいた。 四、『様相』にあって、『概要』にない表現の場合はという記号を用いた。 五、『概要』は句読点に対して意識が低いが、それにあたる個所に一~三字分程の空白がある。それが明確な場合のみ右に口で示した。 六、『概要』『様相』ともに、段落が変わっても一字下げはしていないのが特徴である。『概要』の段落が変わる場合、本文右に斜線\で示しておいた。 七、誤植と誤る心配がある場合「ママ」と傍書してある。 八、旧字、略字、草行書体の漢字は、できるだけ常用漢字に改めたが、歴史的仮名遣い、変体仮名はそのままとした。 九、渡嘉敷村役所にあるオリジナルの『概要』の加筆訂正部分は、注によって明らかにした。その中で (役)『概要』とあるのは、村役所のそれであり、 (山)『概要』とあるのは、山田氏所蔵のコピーの謂である。両『概要』に共通する部分は、単に、『概要』とした。 様相と概要の異同の実際 (クリックすると拡大) 上写真のような記述を、本wikiに適した記述に変えたものを次のページ以降に記します。 →様相と概要の異同の実際 渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』 琉球大学図書館。日付なし。手書き・ガリ版刷り。伊敷論文よりの復元版。 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 渡嘉敷村役所。一九五三・三・六。伊敷論文よりの復元版。 伊敷論文に対する大阪地裁判決の評価 伊敷論文に対する大阪高裁判決の評価 (コメント欄)転載ミスなどのご指摘 名前 コメント すべてのコメントを見る 沖縄戦資料index
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防衛研究所資料<沖台 沖縄> 沖縄作戦 殉国日記 index <沖台 沖縄234> 図版01 【資料データ】 沖縄戦関係資料閲覧室 整理番号: B03-5-331 収蔵文書名: 簿冊名: 沖縄作戦 殉国日誌(海上挺進第3戦隊 皆本義博提供) 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄234 (「沖縄作戦 殉国日記」が正しいが、誤登録の為「沖縄作戦 殉国日誌」でないとヒットしない) 画像閲覧 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331 (アジ歴ではみつかりませんでした) 【殉国日記とは】 沖縄で「集団自決」が起こった島の一つ、渡嘉敷島に駐留していた海上挺進第三戦隊第三中隊所属の中島一郎少尉は、戦後もなお行方不明であった。千葉県の実家への郵便は昭和20年1月15日消印が最後であった。父中島幸太郎氏は必死に息子の消息を尋ねた。沖縄の収容所にいる部隊関係者と連絡を取ろうとした。彼らが復員してくると手紙で問い合わせ、直接面会もした。こうして息子一郎氏の戦斗と戦死の真相を求めつづけた。その過程を綴ったのが「殉国日記」である。 息子からの手紙をまとめた前半は、いわゆる特攻作戦のための「特別幹部候補生」を理解する上でも貴重な資料である。 息子の消息をたずねる後半は、赤松戦隊長や皆本中隊長の手紙や直話が網羅されていて、終戦直後の戦闘状況の認識が分かって興味深い。 中島一郎少尉の行方不明と戦死は、第三戦隊将兵の中でも特異だ。当時、渡嘉敷島には赤松隊を指揮する船舶団司令の大町大佐とその幕僚が訪れていた。慶良間列島が米艦隊に包囲されたことを知った大町大佐は、全隊をもって敵艦隊を突破し、沖縄本島に転戦する命令を下していたが、渡嘉敷島では舟艇の泛水に失敗し、その機会を失った。窮余の策として舟艇2隻をもって、大町大佐と幕僚の本島転進を図った。そのとき選ばれて、操縦の任についた2人のうちの1人が中島一郎少尉だった。 したがって、彼の死の真相に迫ろうとすれば、「なぜ赤松隊は出撃できなかったのか」、「転戦命令は如何に出されたか?」といった核心に触れざるを得ない。のちの曽野綾子「ある神話の背景」などに於ては、大町大佐の優柔不断が赤松隊の戦闘意志を砕いたかのごとく語られるが、果たして真相はどうだったのだろうか? 因みに、赤松隊が出撃中止となったいきさつと大町大佐一行の本島転進について、赤松からの伝聞をあれほど饒舌に記述をしている曽野「ある神話の背景」だが、中島一郎少尉のことは何も記されていない。(wac版P121) 渡嘉敷島の戦闘から1年ないし2年のうちに語られた戦場は、軍人側から見たモノとして貴重な資料といえよう。 序文として、赤松戦隊長が座間味島の捕虜収容所でまとめた「戦闘報告」が載せられている。 お好きな場所からテキスト化してください!! 沖縄作戦 殉国日記(1) 沖縄作戦 殉国日記(2) 沖縄作戦 殉国日記(3) 内容の中から pick up 赤松嘉次「渡嘉敷戦斗ノ概要」 昭和二十年十一月沖縄収容所に於て 赤松元部隊長から中島幸太郎氏への書信 1946年1月17日 赤松元部隊長戦場日記 『殉国日記』に転写された一節 1946.2.22 皆本第三中隊長から中島幸太郎氏への書信 1946年2月17日 皆本義博直話 昭和21年3月 沖縄戦資料index
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正論2006年9月号(産経新聞社・扶桑社) 靖国特集 沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実 弁護士 徳永信一 大江健三郎と戦後民主主義 冒頭にこの裁判は「戦後」という奢った時代の偽善と欺瞞を間うものだと言った。そしてそれは「戦後民主主義者」を自称する大江健三郎氏のあり方に対する問いかけでもある。平成6年のノーベル賞を受賞し、「あいまいな日本の私」と題する受賞講演において日本の文化と歴史を卑下してみせた大江氏は、その後「民主主義に勝る価値と権威を認めない」として日本政府からの文化勲章を拒否しながら、フランスのシラク大統領からレジオン・ドヌール勲章を受け取っている。このことが象徴するように、大江氏は、すべてを「権力vs民衆」の対立図式で捉え、反民主的な権力を支えてきた日本の社会と文化を歪んだものとして非難しながら、西欧を普遍的で進歩的な文明として手放しで礼賛する。その西欧におもねるような姿勢に反撥を感じてしまうのは、そこに大江氏の捩れた特権意識がみえかくれしているからにほかならない。 あるいは大江氏は自身が私淑するサルトルに倣おうとしたのかもしれない。団塊の世代に支持されたサルトルの実存主義哲学は、西欧文明の普遍性を前提に、その西欧が生んだ史的唯物論を乗り越え難い時代の前提とし、歴史を押し進める側へのアンガジュマン(主体的関与)を主張し、進歩的文化人を自任する多くの追随者を生んだ。『沖縄ノート』が出版された昭和45年は、まだ、科学と社会の「進歩」がなんの躊躇もなく信仰されていた時代であった。日本の伝統や歴史に拘ることは、辺境の「封建主義」として切り捨てられ、その見直しの試みは「反動」だと糾弾された。 しかし、その西欧中心主義の世界観と理性的主体としての人間観は、70年代後半になると人間と文化を組み立てている無意識的な「構造」を重視するレヴィ=ストロースやフーコーらの構造主義哲学から厳しい批判を浴び、みるみる色あせていった。そしてサルトルの凋落は、サルトルが時代の公理としていたマルクス主義を奉じる共産主義社会の悲惨な失敗によって実証されることになった。時代は変わった。人々は今、未来の理想社会ではなく千数百年前の万葉集の恋歌に《普遍》を見いだそうとする。大江氏もまたすでに過去の人である。 大江氏の『沖縄ノート』は異様な書である。執拗に繰り返される「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という自問を呪文のように唸りながら、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」を問うものとして沖縄の集団自決に言及する。 裁判所に提出された大江氏側の答弁書によると『沖縄ノート』は、本土の犠牲にされ続けてきた沖縄について、沖縄の民衆の怒りを向けられた本土日本人とは何かをみつめ、戦後民主主義を問い直したものであるとする。そして集団自決に関する記述もこれを本土日本人の問題としてとらえ返したものであり、集団自決の責任者個人を非難しているものではないという。 それでは『沖縄ノート』になんと書かれているかをみてみよう。 「新聞が慶良間列島の渡嘉敷島で…『命令された』集団自決をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席するべく沖縄におもむいたことを報じた」(208頁)とし、渡嘉敷島の守備隊長が、集団自決を命令したことをはっきり記載している。そしてこの守備隊長、すなわち赤松元大尉その人の内面の心理を、お得意の《倫理的想像力》を駆使しながら次のように描く。 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」(210頁)。続いて「ペテン」だの「屠殺者」だのといった中傷を連ねたあげく、 「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」(213ぺージ)とまで書く。《かれ》すなわち赤松元大尉個人をユダヤ人虐殺の責任者として絞首刑となったナチスのアイヒマンになぞらえて断罪しているのである。集団自決の責任者個人を批判するものではないとはよく言ったものである。 前述した平成12年10月の司法制度改革審議会において曽野綾子氏は、大江氏が『沖縄ノート』で赤松元大尉を「罪の巨塊」などと《神の視点》に立って断罪したことを非難して、こう述べている。 「それは『沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物』という風評を固定し、僧悪を増幅し、『自分は平和主義者だが、世間にはこのような悪人がいる』という形で赤松元大尉を断罪し、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけた…それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました」(同審議会議事録)。 提訴間もなく、その大江氏から意外な反応があった。8月16日付朝日新聞の連載コラム「伝える言葉」で、自分が名誉毀損のかどで訴えられたことを取り上げたのだ。大江氏は、わざわざ「原告側の弁護士たちは『靖國応援団』を自称する人たち」と書き、何やら悪しき陰謀に巻き込まれた被害者であるかのごとき口吻をもって、「私はこの裁判についてできるだけ詳しい報道がなされることをねがっています。求められれぱ、私自身、証言に立ちたいとも思います」と宣言し、 こう続ける。「私としては、なによりも慶良間諸島から沖縄列島をおおって、どのように非人間的なことが『日本軍』によって行われたか、そしてそれがいかに読み変えられようとしているかの実態を示したいのです」 居直りとはこういうのをいう。《歴史の読み変え》云々は、裁判において間われている自身の加害者としての責任についてはっきりさせてからいうべきことである。大江氏は、まず、どんな調査のもとに、何を根拠にして、赤松元大尉を「罪の巨塊」などと断定し、アイヒマンのごとく絞首刑にされるべきだと断罪したのかを弁明しなけれぱならない。やがて法廷の誕言に立つという大江氏の約束が果たされる日を待ち遠しく思う。そのとき、彼はなにをどう語るのだろうか。 目次 | 次へ (未作成)
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手久野高校 ピッチャー西脇、セカンド樫野、ショート大本が中心 打撃もこの3人が中心 1番樫野、2番大本、3番西脇この3人がほとんど得点に絡んでいる と・・・言いたかったが最近は4番ファースト中田も大活躍である 打撃C 走塁C 守備A 投手力A 1年目 練習試合(対三軍) ● 0-3 1年目 秋の県大会準決勝 ○ 4x-3 9回サヨナラ
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様相と概要の異同の実際(続) 迫手門学院大手前中・高等学校 紀要第五号 1986年3月30日 『渡嘉敷島における戦争の様相』と 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 伊敷 清太郎 段落ごとに『様相』を黒字で、その下に『概要』を青字で記しました。 ( )付き小見出しは原論文にはなく、転載者が付けたものです。 伊敷論文「はじめに」に戻る 様相と概要の異同の実際へまえがき (軍部隊の進駐) (10・10空襲以降) (3・23~26米軍襲来、出撃か?) (3・27~玉砕場) 様相と概要の異同の実際(続)(3・31~食糧難と残虐行為) (5月・刳舟脱出行) (米軍再上陸と住民処刑) (住民離脱と処刑、降伏) 注 (3・31~食糧難と残虐行為) 【様相】同三十一日米軍は赤松隊の兵力を見くぴったか夜半島を徹ママ退した。空襲も止み生き延びた住民は張りつめた気力を失ひ五日間の空腹に夢遊病の如くさまよい歩む足どりもふらヽヽと浮いていた。死場所を失った住民は迷い歩いた揚句僅かな食糧を残して置いたもとの避難地恩納河原へ集った。 【概要】昭和二十年三月三十一日米軍は赤松隊の無低ママ抗を見くぴったか夜半島を徹ママ退した 砲弾の音も止み生きた自らをうたがひ 張りつめた気力を失い五日間の空腹を夢遊病の如くさまよい乍ら死場所を失った住民は迷い歩いた揚句 僅少な食糧を残して置いたもとの避難地恩納川方面へと移動した、 【様相】赤松隊も持久態勢に入り食糧確保に奔走した。 間もなく赤松隊長からの命令が伝達された。我々軍隊は島に残って凡ゆる食糧を確保し持久態勢を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならぬ、事態はこの島に住むすべての人間に死を要求していると主張し住民に家畜屠殺禁止の隊長命令が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である。直ちに住民監視の前哨線が設けられ多里少尉がその任についた。 【概要】赤松隊も持久態勢に入る為に食糧確保に奔走した 間もなく赤松隊長から命令が伝達された 「(※23)我々軍隊は島に残ったすべての食糧を確保し持久戦の準備を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならない事態はこの島に住む人々に死を要求していると主張し」住民に家畜屠殺禁止の命が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である 直ちに住民監視の前哨戦が設けられ多里少尉がその任務についた。 【様相】住民の座間味盛和にスパイの嫌疑をかけ、無実の罪におとし入れ斬り殺したのも多里少尉である。 亦家族の全部を失って山をさまよい歩く古波蔵樽を之敵に通ずる恐れありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為がはじまった。 【概要】住民の座間味盛和にスパイ嫌疑を問い無実の罪に陥れて斬り殺したのも多里少尉である その他家族全員を失ひ山をさまよい歩く古波蔵樽を捉え敵に通ずるおそれありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為が始まった、 【様相】海峡には敵飛行艇百五十隻が常駐、駆逐艦十数隻、小型空母等が周辺に停泊していた。その他艦船を含む船舶の数は三〇〇隻を下ったことはない。 時々友軍特攻隊の攻撃もあったが敵対空砲火には抗し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見られた。 【概要】慶良間海峡には常に敵輸送艦や駆逐艦、小型空母等が停泊しその散およそ(※24)三〇〇隻を下ったことはない。 時々友軍特攻隊の攻撃もあったが 敵の対空砲火には坑し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見受けられた。 【様相】同 四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし、蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつないだ。 元気の者は監視の眼を逃れて島の各所から蘇鉄を集めた。生き残った防衛隊員は軍の命により防衛隊長屋比久孟祥の指揮で軍の食糧獲得に努力した。 【概要】昭和二十年四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし 蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつなぐ状況となった。 元気の者は監視の眼を逃れて蘇鉄を集めた 生き残った防衛隊員は命令によって防衛隊長屋比久孟祥氏の指揮で軍の食糧獲保に努力した。 (5月・刳舟脱出行) 【様相】同五月初旬軍は遂に住民の保有している僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧を徴集せしめた。住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴて無甲斐さを感ずる者もあった。気力ある者は夜間海岸に出で、米艦船から捨てられた肉切れや、果物の標流物を探し求めて食糧の足しにした。座間味島を逃れて赤松大尉と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ抜け出すことを考へ絶えず機会をねらっていた。防衛隊員の中から刳舟に経験のある者の調査が行われた。この時の白羽の矢が防衛隊員小嶺賀牛、玉城定夫の両名に当った。本人達は希望する所でなかったが軍命であれぱ致し方なく決死行の意を固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手の糸満漁夫二名と共に渡嘉敦港を出発した。 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり、四哩の海路を見事前島部落へ辿りついた。 【概要】昭和二十年五月初の軍は遂に住民の保有する僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧徴収が行われた。 住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴてゐることの不甲斐さを嘆くものもあった。 気力ある者は夜間海岸に出て米艦船から捨てられた肉切れや果物等の標流物を求めて食糧の足しにした。 座間味島を逃れて赤松隊と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ渡る機会を絶えずねらっていたのであろう 防衛隊員の中から刳舟に経験のある者の調査が行われた、 この時の白羽の矢が隊員小嶺賀牛玉城定夫の両名に当った. 本人達は希望するところか軍命であれぱ致し方なく決死行の意固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手に糸満漁夫二名を補強し渡嘉敷港を出発した 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり四哩の海路を無事前島部落へ辿り着いた. 【様相】前島北方海岸に刳舟をかくし上陸して見ると住民の姿は見受けられない。その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まぬ照明弾の合間に砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である。夜は明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達することは到底望めない。然し少佐は万難を排して決行せよとのことである。宵暗と共に前島を出発したが掃海艇の讐戒厳しく二回、三回と失敗を操り返し命からヾヽ引返した。鈴木少佐は舟長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった。小嶺は慎重を期せねぱ目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握って睨んでいる。切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考えてか平静に返った。今こヽで切っては勿論目的達成が出来ないことを知ったのであらう。漕き手は疲れ切って精一杯だった。遂に最後の決死行に意を決し再ぴ前島を後にした。輻輳する艦船の横腹を手操りつヽスクリューの波に巻込まれながら遂に神山島北方へ出た。暗夜に乗じて那覇へ向けたが掃海厳しく接岸不能である。合議の上、舟首を糸満港へ向けた。東天は既に夜明けを知らせつヽあり島伝ひに力漕し糸満港は目前に迫った。夜明けにあせりながら必死に力漕し遂に糸満港についた。一人の負傷者もいない全員無事を喜びながら疲れも忘れて真玉橋の部隊本部へと急いだ。 【概要】前島北方海岸に刳舟をかくし 島に上陸して見ると住民の姿は全く見受けられない. その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まず 照明弾の合間を伝って砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である 一夜明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達成することは到底望むべくもない。 然し少佐は万難を排して決行せよとの事である 宵闇と共に前島を出発したのであるが掃海艇の讐戒厳しく二、三回失敗を操り返し命からヾヽ引返した.三宅少佐は艇長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった. 小嶺は慎重を期せねぱ 目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握ってにらんでいた。 切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考へたか平静に返った。 今こヽで切っては目的が達成出来ないことを知ったのてあらう、 漕手は疲れ切って精一杯だった.遂に最後の決死行である. 再ぴ前島を後にした. 輻輳する艦船の横腹を手探りつスクリウの波にまき込れながら遂に神山島北方へ出た。 暗夜に乗じて那覇へ向かったが掃海厳しく接岸不能である、 全員合議の上 舟首を糸満港へ向けた 東天はすでに夜明けを知らせつヽあるので島伝いに必死の力漕を続け遂に糸満港に着くことができた まさに天佑である全員無事を喜び合いながら疲れを忘れて真玉橋の方面隊本部へと急いだ (米軍再上陸と住民処刑) 同五月初旬米軍は再び渡嘉敷を占領した。赤松隊へ備へて各高地に砲陣地が構築された。間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動され、米軍の保護下で収容された。赤松隊は極度に食糧欠乏し若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍食料集積所を襲ひ食料、煙草等を確保する様になった。そのために米軍は各要所に地雷を施設した。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった。 伊江島住民は米軍の保護を受けつヽ渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活していた。 【概要】昭和二十年五月初旬米軍は再度渡嘉敷に上陸した。 赤松隊の急襲に備へるため各高地には砲陣地が構築された. 間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動せしめられ米軍の保護の下に収容されていた 赤松隊は極度の食糧欠乏が目立ってきた。 若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍の食糧集積所を襲い食料や煙草等を確保する様になった.その為に米軍は各要所ヽヽに地雷施設をし友軍の侵入に備えた。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった 伊江島住民は米軍の保護を受け乍ら渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活している。 【様相】米軍の要求により伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へるためであったが赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を斬殺した。亦集団自決に重傷を負ひ米軍に収容された十六才の少年小嶺武則金城幸二郎の両名は米軍の治療を受け、やうやく依復したので米軍の指示に従い、渡嘉敷住民への連絡のため避難地へ遺けられた。目的は住民へ早く下山する様伝へるためであったが途中赤松隊の将士は二人を捕へ米軍に通じた理由のもとに之は処刑した。 【概要】まもなく米軍からの要求で伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。 戦争がすでに日本に不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へる為の軍使であるが 赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の青年男女を斬殺したのである。 また集団自決場で重傷を負い米軍に収容され(※25)座間味の米軍病院で治療を受けやうやく快復し米軍の使者として渡嘉敷住民へ連絡のために住民避難地へ派遣された十六才の少年小嶺武則金城幸次郎の両人は不幸にも途中赤松隊将兵二人に捕えられ米軍に通じた理由の下に直ちに処刑された。 【様相】渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された。かくして住民は日々欠乏する食糧と赤松隊の恐喝に益々くたぱるのみであった。食ふに糧なく下山に方途なく栄養失調は続出する有様である。 飢餓と戦ひつヽ六月、七月のニケ月を過し八月を迎へたが食糧は欠乏の極に達し住民は死の寸前にさらされた。 【概要】渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏が敵に通ずるおそれありと斬首される等 住民は日々欠乏する食糧難と赤松隊の恐喝に益々くたぱり食ふに糧なく下山するにもその方途なく栄養失調が続出するのみ 飢餓と戦いつヽ六月、七月とニケ月を過し八月を迎えたが食糧はますヽヽ欠乏の極に達し今日まで生き長らへた住民は死の寸前に晒され玉砕した同僚を羨む者さへあった、 (住民離脱と処刑、降伏) 【様相】同八月十二日、午前自決場で妻を失ひ幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い、長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山谷を移動中、米軍の潜伏斥侯四十数名に包囲され拉致された。これが住民下山の第一歩となった。 【概要】昭和二十年八月十二日午前 自決場で妻を失い幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い 長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山野を移動中 米軍の潜伏斥侯数名に包囲され拉致された これが住民下山の第一歩となった. 【様相】同八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒かれた。ボツダム宣言の要旨が述べられ降伏は矢つき刀折れたる者のとるべき賢明な途だと勧告してあった。住民は集団投降の意を固め代表者を選んで村長古波蔵惟好氏と相談した。村長も民意の趣むく所止むなくこれを許し住民は八月十五日迄に殆んど下山した。 【概要】昭和二十年八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒布された。 ボツダム宣言の要旨が記され降伏は矢尽き刀折れたる者のとるべき賢明な途であることを勧告(※26)してあった. 住民は集団投降の意を決し代表者をして村長古波蔵惟好氏と相談した.村長も民意に随ふことを許しぞくヾヽ白旗を掲げて下山した 【様相】同八月十六日防衛隊員と残った一部住民が下山したが赤松隊は依然として投降せず米軍の指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり、新垣重吉、古波蔵利惟、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた。軍使としての任は勿論赤松隊への投降勧告であるが一旦見付かれぱ死を覚悟せねぱならない。新垣、古波蔵は軍隊生活の経験あるため、勧告文を木の枝に縛り付け密に任を果した。与那嶺、大城の両名は要領得ずして、赤松隊に捕へられ即座に切り捨てられた。 【概要】八月十六日防衛隊員と共に残った住民の一部が下山したが赤松隊は依然として投降せず 米軍指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり 新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた その任務は赤松隊への投降勧告であるが一旦見付けられると死を覚悟しなければならない 新垣、古波蔵はよく状況察知し軍隊生活の経験ある為(※27)歓告文を木の枝に縛り付け密に任を果して帰ったが与那嶺、大城の両氏は要領得ずして赤松隊に捕らわれ即座に切り捨てられた、 【様相】同八月十八日赤松隊知念副官が軍使として米軍に投降の交渉に当った。 【概要】昭和二十年八月十八日赤松隊知念副官が軍使として投降の交渉に当った、 【様相】同八月十九日赤松隊長、知念副官、外将校一名が米軍本部へ到着、渡嘉敷小学校々庭に於て武装を解除され、降伏文に調印した。次いで西村大尉の率いた赤松隊将兵は戦死した戦友の遺骨を先頭に二十二日渡嘉敷校々庭に集合し武装を解除され間もなく沖縄本島へと出発した。 【概要】昭和二十年八月十九日赤松隊長知念副官外将校一名が米軍本部へ到着渡嘉敷小学校々庭において武装を解除され降伏文書に調印した、 次いで西村大尉の率いる赤松隊将兵が戦友の遺骨を先頭に 八月二十二日渡嘉敷小学校々庭に集合武装を解除され直ちに沖縄本島へ連れ去られた 【様相】総べての力を結集し、あらゆる食糧を確保し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ、皇国のために全員玉砕渡嘉敷島に屍を曝すと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には抗すべくもなく牧牛の如く連れ去られたかと思ふと一掬の涙を催すものがあった。 斯くして本島作戦と切り離されていた島の戦線は独得の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島の降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じた。 【概要】あらゆる力を結集し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ皇国の為全員玉砕渡嘉敷島に屍をさらすと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には(※28)坑すべきすべもなく牧牛の如く連れ去られたこと思ふ時一掬の涙をさそうものがあった. 斯様に沖縄本島と切り離された島の戦線は独特の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じたのである 【様相】最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久道路上で米軍と遭遇し激戦の後、伊芸山山頂で護国の花と散った佐藤小隊の一事である。(完) 【概要】尚最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久路上で米軍と遭遇し激戦の末、伊芸山の山頂に護国の華と散った佐藤小隊の一こまである (完) 注 1(役)『概要』「あるかを」の「か」の上に、ベンで「こと」と直してある。 2(役)『概要』「いた」の「た」の上に、ペンで「る」と直してある。 3 (山)『概要』には、「驚いたことは」とある。(役)『概要』は「驚いたことには、」という具合に、「に」と「、」が加えられている。 4(役)『概要』では、「を」をペンで消して、「が」に直してある。 た 5(役)『概要』では、「見られたかと恩ふと」というように、「た」がペンで傍書されている。 6(役)『概要』では「底」をペンで消し、「低」に直してある。 7 『概要』は「左」文字を「在」に書き誤り、右方に「左」と訂正。 8(役)『概要』では「充」を消し、「当」に直してある。 9(役)『概要』では点をほどこしているが、後人が「か」と読みとったからであろう。 10『概要』は、「一部」の次に「を残」と書き誤り、==で消してある。 11(役)『概要』では、「じ」となっている。 12(役)『概要』には「できないものがある」というふうに、「い」文字がペンで書き加えられている。 13『概要』では「六」と書き誤っており、ペンで「五」に書き直してある。 14(役)『概要』では、「待った」の「た」をペンで「て」に直してある。 15 9に同じ。 16(役)『概要』では、「〓」の「廾」をペンで消してある。「獄」の謂であろう。 17『概要』では「友軍陣陣地」と書き、上の「陣」を斜線で消してある。 地 18(役)『概要』では、鉛筆で「友軍陣地北方」と「地」文字を書き加えてある。 19「死なう」の、な」は、(役)『概要』において、「の」とペンで書き直してある。 20『概要』では、「ら」を==線で消し、「と」に直してある。 21(役)『概要』では、鉛筆で「三六ニ」に直してある。 22(役)『概要』では、ペンで「郊」を消し、「軍陣地附近」と直してある。 23『概要』のカギのとじの部分は正しくない。 24『概要』は「おそよそ」と書き誤り、最初の「そ」を==で消してある。 25(役)『概要』では「小嶺武則次金城幸次太郎」というふうに、鉛筆で訂正してある。 26(役)『概要』は、焦け跡よって判読不能。煙草によるものと思われる。 27(役)『概要』「歓」の「欠」部を消し、右方に「力」とペソで直してある。 28(役)『概要』では「土」を「才」に直してある。 戻る
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http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomen10.html 準備書面(10) 2007年5月25日 準備書面(10)記載内容について、日本軍の隊長の自決命令に関する部分の要旨を、以下のとおり整理して述べる。 1 沖縄戦において、日本軍第32軍司令部(球第1616部隊)は、1944年(昭和19年)11月18日に「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」(乙33)を定め、日本軍は、 「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍官民一体の総動員作戦を展開していた。 2 座間味島や渡嘉敷島など慶良間諸島に駐留を開始した日本軍も、この方針のもとに、住居の提供、陣地の構築、物資の運搬、食糧の供出・生産、炊事その他の雑役等に村民を狩り出すとともに、村民の住居に兵士を同居させ、さらには村民の一部を軍の防衛隊に編入し、軍は村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、全権を握り、これらの軍への協力を、村長、助役、兵事主任、防衛隊長などを通じて命令していた。 3 そして、軍は、米軍が上陸した場合には村民とともに玉砕する方針を採り、秘密保持のため、村民に対しても米軍の捕虜となることを禁じ(捕虜となったとの理由で日本軍によって処刑された住民が現実に存在する-乙49「座間味村史」上巻366~368頁、乙50「座間味村史」下巻48、106、115頁、乙13「渡嘉敷村史」200~201頁、甲B18「ある神話の背景」193頁以下など)、「米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される」などと脅し、いざというときは玉砕(自決)するよう、日本軍の隊長からあるいは個々の兵士を通じて言渡していた。 4 昭和20年2月中旬に海上挺進基地大隊の主力が沖縄本島に移動したが、基地大隊の残置地部隊は海上挺進戦隊長の指揮下に入り、その他の部隊(特設勤務中隊、船舶工兵小隊、防衛隊)もすべて第一戦隊長の指揮下に入った(乙55防衛庁防衛研修所戦史室著「沖縄方面陸軍作戦」232、236、244頁、乙49「座間味村史」上巻345頁、乙13「渡嘉敷村史」198頁)。すなわち、梅澤隊長及び赤松隊長は、座間味島及び渡嘉敷島の日本軍の最高指揮官であり、日本軍の指示・命令は、すべて梅澤隊長又は赤松隊長の指示・命令であった。 5 慶留間島は、阿嘉島(両島とも座間味村に属する)とともに海上挺進第二戦隊の野田義彦少佐(戦隊長)が守備隊を指揮していたものであるが、野田戦隊長は昭和20年2月8日の大詔奉戴日に慶留間島で住民に対し、米軍が上陸したときは玉砕するよう訓示した(乙48與儀九英回答書、乙49「座間味村史」上巻357頁、乙9「沖縄県史第10巻」730頁)。 阿嘉国民学校慶留間分教場の校庭で野田隊長の訓示を直接聞いた與儀九英氏は、野田隊長が「敵ノ上陸ハ必至。敵上陸ノ暁ハ全員玉砕アルノミ」と厳しい口調で大声で住民に訓示したと明確に証言しており(乙48與儀九英氏回答書)、慶留間島において野田義彦少佐の住民に対する玉砕訓示があったことは明白である。 そして、この自決命令に従い(乙48與儀九英氏回答書)、慶留間島では、昭和20年3月26日朝に米軍が上陸を開始した後に、全人口の半数近くの住民が集団自決により死亡した(乙49「座間味村史」上巻356頁以下)。 6 座間味島では、昭和19年9月に日本軍が駐留するようになった直後に、基地大隊の小沢隊長が、島の青年団を集め、米軍が上陸したら自決するよう指示しており(乙41陳述書)、毎月8日の大詔奉戴日には忠魂碑前で日本軍が同様に住民に対し玉砕を指示していた(乙B5「母の遺したもの」97~98頁)。また、米軍上陸前後に多くの住民が日本兵から自決をするよう指示され、自決用に手榴弾を配布されるなどしている(乙9「沖縄県史」746頁宮平初子手記、738頁以下宮里とめ手記、甲B5「母の遺したもの」46頁宮城初枝手記、乙50「座間味村史」下巻61頁宮里育江手記、乙51陳述書、乙52陳述書、乙53・2007年5月14日付朝日新聞朝刊記事など)。 そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され航空機による空爆や艦砲射撃などによる攻撃がなされる中で、逃げ場を失った村民は、かねて指示・命令されたことにしたがい、軍の玉砕命令が発せられたとの伝達を受け、あるいは日本軍の将兵から自決するよう指示され、自決用の手榴弾を渡されるなどして、集団自決に追い込まれたのである。 住民は、「軍官民共生共死の一体化」方針のもとで、駐留する日本軍から「玉砕」を指示され、玉砕するしかない立場に追い込まれ、自決したものであり、日本軍が住民に対し「玉砕」を指示することなく、捕虜となることを容認していれば、集団自決が発生することはなかったことは明らかである。 原告らは、座間味島の集団自決は村の助役が住民に命令したかのように主張するが、座間味村の助役兼兵事主任兼防衛隊長であった宮里盛秀氏は、昭和20年3月25日の夜、父宮里盛永(戦後宮村に改姓)氏らに対し、「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている」と告げている(乙51陳述書、同旨乙28宮村盛永自叙伝)。すなわち、宮里盛秀氏は、あらかじめ座間味島の日本軍(梅澤部隊長)から、米軍上陸時には住民は自決するよう命令されていたもので、伝令を通じて自決のため忠魂碑前に集合するよう住民に対し軍(梅澤隊長)の命令を伝えたものである。 7 (この項は被告準備書面(5)による。)渡嘉敷島では、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山(新城)真順氏に対し渡嘉敷部落の村民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示した(乙12、乙13-197頁)。渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(=赤松隊長)による自決命令があったことが明らかである。 そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が村民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに、同27日夜、村民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて村民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の兵士である防衛隊員が軍の陣地から出てきて自決用の手榴弾を住民に配り、そこで集団自決がおこなわれた(乙11-279頁~287頁・金城重明氏証言、乙9-768頁~769頁・古波蔵(米田)惟好氏証言)。防衛隊員が「伝令」と叫んで村長に命令事項を伝え、これにもとづいて村長が手榴弾を発火させるよう住民に指示したとの新たな証言もある(乙53朝日新聞記事)。軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍が陣地近くに住民を集結させ、軍の部隊である防衛隊員が軍の陣地から自決用の手榴弾を持って出てきて村民たちに配布し、軍の自決命令が出たと伝えられ、その結果村民の集団自決が行われたものであり、軍の命令によって集団自決が行われたことは明らかである。また、村民たちが軍の自決命令が出たと認識し自決したことも明らかである。赤松隊長は、渡嘉敷島における軍の最高指揮官であったもので、軍の自決命令は赤松隊長の命令にほかならない。 なお、産経新聞に掲載された照屋証言が信用できないものであることは、被告ら準備書面(11)に詳述したとおりである。 8 原告らは、日本軍の隊長の玉砕訓示や兵士の玉砕指示は、戦時下の日本国民としてのあるべき心得の教えを確認したにすぎないものであるから軍の命令とはいえず隊長命令説の根拠となりえないと主張するが、慶良間諸島の住民がそのような心得の教えを受けていたとしても、現実に日本軍が駐留し、敵が上陸することが予想される事態において、島を支配する日本軍の隊長や個々の兵士から、「捕虜となることなく、玉砕せよ」と指示されたのであるから、これは「軍の命令」以外の何者でもない(乙48與儀九英回答書)。 以上
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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』 平成19年12月25日 教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会 http //www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授 我部政男山梨学院大学教授(つづき) 高良倉吉琉球大学教授 秦郁彦現代史家「集団自決」問題についての所見(渡嘉敷島を中心に)1. 命令系統(付図参照) 2. 集団自決の事例と規模 3. 自決手段としての手榴弾 4. 防衛隊 5. 集団自決の状況(渡嘉敷) 6. 援護法について 7. 総合的考察 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1) 大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授 我部政男山梨学院大学教授(つづき) 高良倉吉琉球大学教授 秦郁彦現代史家 「集団自決」問題についての所見(渡嘉敷島を中心に) 秦郁彦(現代史家) 平19.11.19 1. 命令系統(付図参照) a 2つの系統がある。1つは大本営から戦隊長にいたる系統、もう1つは内相から知事を経て渡嘉敷村長、巡査、ついで住民に至る系統である。 b 戒厳令が施行されなかったので、戦隊長から村長に対する法的命令権はなく、連絡、指導権しかない。米軍上陸と同時に第32軍、県庁と島との通信連絡は杜絶した。 c 戦隊と村の連絡は、兵事主任と駐在所巡査が担当。 d 戦隊は米軍上陸前日の45年3月26日、特攻出撃ないし本島への移動準備中で、急に大町大佐より出撃中止の命があり、ボートを自沈させ、27日急造の陣地へ移ったため、結果的に島の「守備隊長」として陸上戦へ移行したため、住民対策は考慮していなかった。 e 防衛隊は島在住の在郷軍人が主体で、若干の年少者(16~18才)もふくまれていた。在宅のまま戦隊、勤務隊に配属され、住民の護衛役としての戦闘任務を想定したが、戦隊の戦力とは見なされてなかった。ただし、手榴弾は渡されていた。 f 命令は発令、受令者名、日付、番号を記した文書によるのが原則であり、正規の戦隊長命令が出ることはありえない。誤認があったとすれば、口頭による連絡か指導であろう。 2. 集団自決の事例と規模 a 正確なデータはないが、林Ⅱ5を参照。沖縄では9~10件が紹介され、死没者は計900余人、うち慶良間三島が616名、全体の7割近くを占める。本島での事例が少ないのは、逃げ場所が多かったためであろう。前例はサイパンなどでいくつかあり、とくにサイパンの民間人死亡者は沖縄出身者が多かった。 b ただし「集団自決」にふくまれているなかに、米軍の砲撃による死者があり、渡嘉敷の公式数字(村のHP)は329人(自決記念碑=白玉碑は315人)となっているが、援護法の関連で昭27年までの死亡者とされている(鴨野P.87参照)。また砲撃の死者は不明だが、NYタイムズ記事(上原、P.20)によると、米軍は3月29日朝渡嘉敷の自決現場を見て、「自決者200~250人を発見、うち150人が死亡(うち40人は手榴弾)、生存者70人を治療、助かる見込のない者には軍医がモルヒネを与えた。不発弾多し」と記す。 3. 自決手段としての手榴弾 a 日本陸軍の手榴弾は91式(重量530グラム、遅延信管7~8秒)が主で、99式もあったが、性能に大差はない。使い易い近接戦闘用の攻撃兵器。爆発させるには、まず頭部の安全ピンを抜き、信管を堅牢物(軍靴の底が標準、他に石、鉄カブトなど)に強く叩きつけ、シューと発火して1~3秒で投げる。防水性あり、水中でも発火する。米軍製に比べ、強く叩かないと発火しない傾向がある。 不発が多かったとされる理由は、強く叩かなかったことが主因と思われる。また1発で死ぬのは1人が通例、近くの人は急所に破片が命中しないかぎり、負傷に終わる。 b 沖縄戦で自決に使われたのは、動けない重傷者に軍医か衛生兵が青酸カリ、昇汞、モルヒネを与えた例が多い。バケツの水に青酸カリを溶かし、コップで飲ませた例もある。手榴弾は単独になった軽傷者が野外で実行した。もし集団自決を計画的に実施する場合には毒物のほうが簡易で確実であろう。 c 渡嘉敷の戦隊は爆雷を携行する特攻ボートなので、陸戦用の装備はきわめて貧弱であった。軍刀、ピストル、手榴弾のほかには、小銃と軽機が若干あった(詳細は戦史叢書P.244)。 d 手榴弾は勤務隊の兵器係が管理していた。防衛隊員にも2発ずつ持たせ、自宅に持ち帰っていた者もあり、これらが集団自決に流用された。 4. 防衛隊 a 渡嘉敷島には正規の軍人・軍属(330人)、防衛隊員(70人)、一般住民(約1300人)の三種類がいた。別に朝鮮人軍夫210人あり。 b 村のHPによると、上記のうち、軍人・軍属173人、防衛隊員42人、一般住民383人(うち集団自決329人)が戦没した。村史によると終戦時に1100人が下山したという。 c 『陸軍防衛召集規則』(昭19年10月改正)によると、防衛隊(Home Guard)の召集対象は17歳~45歳となっている。軍隊で戦地勤務経験のある在郷軍人が中心となった。徴兵年齢は19歳以上なので、人員が不足したため、沖縄では13歳~60歳まで召集したとされる(林、P.236)。16歳以下は志願を建前とする義勇隊(鉄血勤皇隊などの男子学徒、ひめゆりなどの女子学徒)とされたが、両者の境界は明確でない。 d 防衛隊員は総数25,000人、うち13,000人が戦没したとされる(大城『沖縄戦』P.152)。逃亡者(自宅へ戻る)がきわめて多かったが、防衛隊を総合的に分析した文献は皆無。 e 隊員は原則として、補助戦闘員として各部隊へ配分されたが、待遇、任務などはまちまちであった。島の場合は軍との関係はゆるやかで、自宅通勤が通例だったようで、戦隊長や幹部と面識のない者も多かった。隊の戦闘には使わず、一般住民の護衛役を想定していたようである(戦隊の皆本義博中尉による)。 5. 集団自決の状況(渡嘉敷) a 渡嘉敷では昭20.3.23大空襲(主要施設は焼失) 3.25 艦砲射撃、特攻ボートの自沈、破壊 3.26 艦砲射撃と空襲深夜、戦隊は複郭陣地へ 3.27 朝米軍上陸(2大隊) 3.27 夜~3.28昼間2か所で集団自決 3.29 米軍、慶良間占領宣言(主力は他へ転進) b 信頼性の高い公的記録と証言(要旨) 1 戦史叢書 2 県史 3 村史(渡嘉敷、座間味) 4 沖縄県警察史 5 裁判記録 ○ 渡嘉敷村史(資料篇P.366) 「事前に軍から兵事主任を通じ自決用の手榴弾が配られていたが、誰が自決を指示したかは不明」 ○ 古波蔵(→米田)村長手記(県史P.768) 「安里巡査が、西山へ集合せよとの赤松の命令を伝えてきた。そこで合流した20~30人の防衛隊員がくれた手榴弾で自決へ。不発で死ねず、陣地へ向い赤松隊に追い払われた」 ○ 徳平郵便局長手記(県史P.763) 「私をふくめ村長以下の幹部が協議して自決を決し、防衛隊員が持ってきた手榴弾を配ったが不発」 ○ 安里喜順巡査(『沖縄県警察史』第2巻P.774、他に昭和史研究会報56号) 「村長から頼まれ米軍上陸直前に住民対策を聞くと、赤松は非戦闘員は生きられるだけ生きてくれと述べ、西山へ避難するよう勧告したので、防衛隊員を通じ、村長に伝えた。自決に失敗した村長以下が陣地へ行き、機関銃で殺してくれと頼んだが、赤松は拒否した」 c 信頼性のある私的記録と証言(要旨) ○ 大城良平(防衛隊員)(県史P.781) 「集団自決と赤松隊は何も関係なく、住民の自発」 ○ 知念戦隊副官(県史P.773) 「赤松は自決を聞いて早まったことを、と歎いていた。赤松の命令はありえない」 d 研究者の見解(要旨) 林博史「(渡嘉敷では)赤松隊長からの自決命令は出ていない」「防衛隊員が島民に合流し、手榴弾を持ちこんだ」(林P.160-61) 同「座間味で自決を主導したのは村の幹部や校長」(P.162)「本島南部でも逃げてきた防衛隊員が持っていた手榴弾で家族ごと自爆の例が少なくない」(P.167) 同「(慶留間で捕えた島民)は日本兵が「死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたからだ」と米軍の尋問に証言(P.166) 同「戦隊長が当日、直接命令したかどうかにかかわりなく、日本軍による強制は明らかだ」(07.11.9付沖縄タイムス) 安仁屋政昭「誰が・・・自決を指示したかは不明」(1987、渡嘉敷村史・資料篇、P.366) 同「(富山証言は)自決強要の物的証拠」(1990、村史・通史編、P.198) 同「自決には軍命があったはず」(朝日07.5.14付) 大城将保「曽野は(渡嘉敷で)自決命令はなかったことを立証。事実関係について反証はない」(『沖縄戦を考える』1983) 同「曽野について随分と甘い点数をつけたものだと我ながら恥ずかしくなる」(『沖縄戦の真実と歪曲』2007、P.66) 同「隊長が自決命令を出したかどうか・・・といった些末な議論は、木を見て森を見ず・・・」(同前P.69) 同「(渡嘉敷は)どうして自決するような破目になったか、知る者は居ないが、誰も命を惜しいとは思っていなかった」(県史解説P.690) 同「(座間味は)部隊長から自決命令が出されたことが・・・ほぼ確認できる」(同前P.699) 大田昌秀「命令の有無ということ以上に、選択の余地なく集団自決に行きつく背景を十分に理解せねば」(『世界』07年10月号、P.50) e 信頼性の低い最近の証言(要旨) ○ 故富山真順(渡嘉敷村兵事主任、戦後も役場職員) 初出は朝日新聞88.6.16夕刊で「3月20日頃、赤松隊からの伝令で15~16歳の少年たち20人を村役場に集め、赤松隊の下士官(兵器係軍曹)が2個ずつの手榴弾を配り、1発は攻撃、1発は自決用と命令した。3月27日安里巡査から西山へ集結せよとの軍指示を伝えてきた。富山一族は不発弾もあり13人が死亡、6人が生き残った」とのこと。同主旨の証言は村史(通史篇、1990)に安仁屋政昭教授のヒアリングとして紹介され、安仁屋は手榴弾が渡ったことは「自決強要」の物的証拠だと解説している(P.198)。 その後も、この富山証言はあちこちで引用されている。 疑問点として (1) 3月20日は、米軍の慶良間来攻を予測していなかった時期、 (2) 15~16歳に配ったことの意義が不明 (3)事実だとしても手榴弾の交付は集団自決命令を意味しない(大江裁判における反論)。 (4)『潮』(1971)の富山手記は、この件に言及がなく、戦隊の一員から「生きのびてくれ」と言われたと記す。 (5)村史・資料編(1987)の富山手記は、この件についての言及がない。 (6)1988年4月の家永裁判に出廷した金城重明が安仁屋から聞いて富山へ確かめ、富山証言を知ったと陳述している。その少し前に安仁屋が富山から初めて聞いたと思われる。 ○ 3人の女性(座間味)の証言 初出は朝日07.5.14付。7月に沖縄県議団が訪問して再確認したことを7月6日、7日の沖縄タイムスが報道、9月30日の朝日社説が引用。 宮平春子(80)-1945.3.25夜、実兄の宮里盛秀(助役)が来て父の宮里盛永に「軍からの命令で敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている」と語ったのを、そばで聞いた。また日本軍の中尉から「米軍につかまるときには舌をかんで死になさい」と言われた。 宮里育江(82)-「隊員が手榴弾を渡し万一の時は自決せよ」と言われた。 上洲幸子(84)-軍人が村民を集め「敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と言われたが、別の兵から投降を勧められ、そうした。 沖縄タイムス(07.7.7)-県議団は8人の体験者から話を聞き、「7割が玉砕命令を聞いている」と報道 疑問点として (1)宮平春子の兄宮村幸延(宮里盛秀の弟)は梅沢への詫び状(裁判へ提出)で自決命令は盛秀が出したと書いているので矛盾する。 (2) 宮里盛永は1956(?)に自伝を書いているが、軍の命令ではなく盛秀と村長の命令ととれる書き方になっている。 (3)上州証言について沖縄タイムス(07.7.7付)は「梅沢部隊長が」と報道。朝日社説(07.9.30)は「日本軍の隊長」と記し、朝日は07.10.3付の社説で「日本軍の軍人」の誤りだったと訂正。 ○ 林博史の「発見」した米軍文書 初出は沖縄タイムスの06.10.3付。07.1.19の大江裁判に提出。米軍の1945.4.3付作戦報告の中に、慶留間島の住民への尋問で、「住民らは日本兵が米軍上陸のときは自決せよと命令した」との記録ありと。 疑問―原文と林訳を対比すると意図的な誤訳が数か所あり、命令ではなくtellとあり、soldierでofficerではない。「山に隠れ、そして自決しなさい」という原文は自決するなと同義になると大江裁判の原告側弁護人が反論(鴨野P.58) 6. 援護法について a 「戦傷病者遺族等援護法」(法127、援護法と略称)は1952年に成立、1953年から沖縄へも適用された。58年から厚生省は一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」により、集団自決者、防衛隊員の戦死者、壕の提供者などを準軍属の「戦闘参加者」として救済の対象とした。自決者の年齢も6歳以上とし、81年以降は沖縄については0歳まで拡大した。 b 1987年の「座間味村政要覧」によると、軍人・軍属への給付が1500万円に対し、遺族給付は67件、1億円余(一人につき196万円)の規模で、結果的に村民のほぼ全員が受給者となった。二島の自決者を500人とすると、現在まで1人4000万円と仮定すれば、総計200億円が支給されたことになる。村財政で多大の比重を占めた。 c 照屋昇雄証言 照屋氏は、1954年から琉球政府社会局援護課に勤務し、援護法の適用に関する事務に当たった。 04年9月に沖縄の陸上自衛隊からヒアリングを受け、資料を提供したが、05年5月訪沖した藤岡信勝氏らに事実を語り、産経新聞の05.6.5付で報道したが、このときは「口外すると沖縄では生きていけない」と述べて匿名登場した。しかし翌年に実名、写真の公表を決断、06年8月27日の産経が報道した。告白の要旨は 「1956年頃から厚生省の調査が始まり、集団自決が軍命であれば〔戦闘参加者〕として給付の対象になると示唆され、玉井渡嘉敷村長と2人で〔自決命令状〕の原案を作成。玉井が赤松に会い、説得して押印してもらい厚生省へ提出、給付が始まった。このことは山川社会局長ら少数を除き極秘事項として長く伏せられてきた」というもの。座間味村の援護係宮村幸延の梅沢あて詫状を裏書きする証言であった。 産経への照屋証言は大江裁判に原告側の準備書面で提出され、被告側は、照屋氏が当時期に在任していなかったと反論したが、照屋氏は琉球政府の辞令書を示し、在任していたことを立証した(『史』06年9月号、鴨野P.62-63)。 7. 総合的考察 a 集団自決の軍命説が成り立たぬ理由 事実関係は別にして (1)命令系統(略) (2) 自決の「強制」は物理的に不可能に近い。 (3) 自決者は全島民の3割に及ばず、多数が生きのびた。負傷者に自決を求める空気はなかった。 (4) 負傷者に赤松隊長は医薬品を与え、軍医と衛生兵が治療に当たったと村長は認めている(曽野文庫版P.125-26) (5) 赤松は手記の中で、避難集結の指示を出したことが、軍命令による自決 命令と曲解されたのではないかと推定(『潮』71年11月号) (6) 攻撃用手榴弾の交付は集団自決との因果関係はない。 (7)慶良間三島以外の地における集団自決については、軍命説が見当たらないので、ここでは言及しない。 (8) 軍命説を撤回、削除した次のような例がある。 沖縄県史第8巻P.410(1971)→同第10巻P.690(1974)、『沖縄史料編集所紀要』(1986)で修正 家永三郎『太平洋戦争』(1968)→1986、2002年版で赤松の自決命令は削除 山川泰邦『秘録沖縄戦記』(1958、69)→2006年版で削除(鴨野、P.84) 沖縄タイムス社説(1985.6.20付)は「軍の命令であったか、住民の自発的なものであったかはさておき・・・戦争に責任が」と書いたが、その後逆戻りした。 b 軍命から関与へ 吉川嘉勝(渡嘉敷村教育委員長)は07.9.29の県民大会で「日本軍の命令、誘導、強制、支持、宣撫、示唆などの関与がなければ、集団自決は起こらなかった」と演説した(30日付『赤旗』)。「誘導」は石原昌家、安仁屋が使っている。他に「強要」を川田文子、「黙認」を吉川勇助が使う。この系列には「自決禁止」も入るかどうか不明。訂正申請は「強制」を軸としているかに思える。 c 皇民化教育、軍国主義の風潮、鬼畜米英の宣伝など これらの責任者は不明だが、当時のマスコミがもっとも強力な一翼を担ったことは否定しがたい。 例 「(サイパン玉砕で)従容婦女子も自決」「婦女子も、生きて鬼畜の如き米軍に捕はれの恥辱を受くるよりは」(1944.8.19付朝日) 「米獣共が如何に日本人を憎み、いかに日本兵を1人でも殺そうとしているか」(『沖縄新報』(県紙)社説、1945.2.16付) 参考:月刊誌『諸君!』08年2月号(12月25日発売)の秦郁彦「徹底検証沖縄集団自決と大江健三郎裁判」 (引用文献) 沖縄タイムス社編『鉄の暴風』朝日新聞社1950 防衛庁防衛研究所戦史室著戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』朝雲出版社1968 『潮』1971年11月号「生き残った沖縄県民100人の証言」 曽野綾子著『ある神話の背景』文芸春秋社1973 沖縄県教育委員会『沖縄県史』第10巻各論編9 沖縄戦記録2 1974 嶋津与志(大城将保)著『沖縄戦を考える』ひるぎ社1983 上原正稔訳編『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』三一書房1986 渡嘉敷村役場『渡嘉敷村史』資料編1987 渡嘉敷村役場『渡嘉敷村史』通史編1990 沖縄県警察本部『沖縄県警察史』第2巻1990 Gerald Astor 『Operation Iceberg』N.Y. 1995 大城将保著『改訂版沖縄戦』高文研1988 座間味役場『座間味村史』1989 宮城晴美著『母の遺したもの』高文研2000 林博史著『沖縄戦と民衆』大月書店2001 大城将保著『沖縄戦の真実と歪曲』高文研2007 鴨野守著『真実の攻防』世界日報社2007 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 戻る